専門家投稿:「阪神、淡路大震災派遣経験から」

 今回は、経験した災害派遣の中での、隊員の意識及び現場での状況と私の感じたことを記したいと考える。

 当時私は、電測員長で先任海曹室に入っており、階級は1等海曹で分隊先任海曹をしていた。乗り組んでいた艦は、震災当日から定期修理のため、燃料・弾薬を陸揚げした状態で、修理地の造船所へ回航する日であった。朝早くからのニュースで、各乗員は何かあると感じて行動を取っていたのであろう、警急呼集(緊急帰艦命令)が発令され約2時間で総員帰艦、陸揚げしていた燃料を再搭載し、災害派遣物品等(非常用糧食・毛布・捜索機材等)を搭載し、正午には何時でも出港できる状態であった。

【感じたこと】

 「即応態勢の確立」指導方針や訓育等で教育は受けているが、艦の初任海士に至るまで一人として欠けることなく、2時間程の時間で態勢が整ったこと、それも、修理地回航が決まっていて、気の緩む悪条件での警急呼集であり、ニュースを見て何かあるのでは?と感じる心構えと、そのことに対し、使命として受け入れる素直さが若年隊員にあったと考える。

<入隊時の誓約が守れる。自覚ある仲間と共に乗組む艦に誇りを持てた。>

 17日14:46出港、阪神沖までの航海中に、航海非番直員で3万食の缶詰ボイルに奮闘し、阪神港内外を調査の後18日03:48阪神沖投錨した。

 1時間の仮眠後、捜索隊60名(20名1組の3組で乗員の約1/3)が  05:30艦発し、神戸新港へ上陸して捜索範囲の生田区 (生田署) まで徒歩にて移動、周り一帯のビルは倒壊し、水道管は破裂、アスファルトは口を大きく開け、ニュースの映像より遙かに凄い街の様子、想像を絶する瓦礫の山と化した一帯に、隊員一人一人口数も少なく「役に立てたら何でも」の気持ちだけで移動した。移動中公園前の路上で休息を取ったが、その時公園の金網フェンス越しに公園内の子供 (小学生か幼稚園児) と話した。きっかけは水筒の冷たいお茶である。当時私の次男が同じぐらいで、欲しそうに見ていたその子供に『飲むかい?』と声をかけた。水も安心して飲めない状況で1日を過ごした子供、もし我が子であったならの情けが、自分の分と、近くにいた部下数人の飲料水を減らす事となった。何時まで続くか分からない派遣作業を考えると、飲料水は大切にすべきである。しかし、その場の子供の顔が我が子と重なり、後先を考える判断ができなかった。

【感じたこと】

 移動後に、生田署で指示を受け捜索を実施し、昼食の缶詰が届いたのが 16:00過ぎであったが、艦を出てほぼ12時間後のその時には、水筒は空で、少しずつ皆から分けて貰って缶詰を食べた。早朝に私に同調した部下達も同様であった。

 <今回の場合、自分たちの食事の時だけであったが、使命を受けて行動中に情に流されて、たかが飲料水であると減らしたことで、使命が遂行出来ない状況や部下を窮地に陥れる状況等色々と考えさせられた。部下に対しては止めるが、自分のことでは今もって答えが出ていない。>

 生田署に移動後の捜索は、各部隊から集まった部隊毎に20名もしくは30名で捜索班を編成し、ひとつの班に警察官・消防官各1名が随伴してその情報に基づき捜索が始まった。私は当時の先任伍長と同じ班で20名と共に行動した。我が班の初任務は半倒壊し、1階部分が半分潰れた状態のアパートで、1名の行方不明者があり、その捜索をすることであった。「家が建っているのは、電柱と電線にすがっているからでは?」と思われる状態であり、何時崩れてくるか心底恐ろしいと思いつつ、通れる所を安全確認するために、捜索班の先頭をきって2階の小窓から入った。暗く崩れた部屋の中を半分手探り状態で安全を確認しながら、ミシミシという音を聞くと、恐怖と一緒に我が子の顔が浮かんだのを今も覚えている。安全確認が終わり通路を確保し、捜索を開始して約2時間後にやっと2階部分から崩れた下の部屋に入ることができたが、二つの部屋が一緒に潰されていてどちらの部屋か分からない状態であった。タンスが組み重なって2階部分を支えた場所があり、そのタンスの中身を手渡しで出していると、母親の捜索を聞いて息子さんが来て居られ、所有物の確認をお願いした。何回か出した物の中から「母の着物です」「これも母の物です」涙を堪えた声を聞き、その付近を重点捜索(暗闇で這いつくばって手探りの捜索)していると、数分後に「発見した!」の声、すぐに私の班員である海士長 (現: 海曹長) が出てきたが、顔は蒼ざめ「冷たい足か手と思います。暗くて確認はできませんでしたが、間違いなく人です。一度外に出てもいいですか?」と尋ねてきた。私は彼が心配で一緒に外に出て、指揮官の先任伍長に彼を休ませる旨を報告し、様子を見ると彼は路地の隅で隠れるように吐いていた。

【感じたこと】

 班員の海士長は、高校生時代は相当のガキ大将で通っていたらしく、艦内でも元気のある恐れ知らずの様な所があったが、暗闇で初めて死体に触り気分が悪くなったらしいが、そのまま休むことをせずに、外に運び出す収容作業も率先して頑張っていた。

 <後の話であるが、彼から「自衛官でなければ、自衛隊に一生居る気でなかったら、逃げていたと思うし、何かあった時に、国民の為に一生懸命するから日頃給料を貰って訓練している。出来ないのであれば、恥ずかしいので辞める。」と聞いた時、2年余りの若年隊員の中に自衛官のプライドを見い出し、育ってくれてありがとうと強く感じた。>

 悲しくも死体でしか収容できなかったが、次の捜索に向かう我々の背中に、息子さんや近所の人達が、何時までも頭を下げておられた。

 その他の班では、瓦礫の下から微かに鳴る目覚まし時計の、鳴ったり止まったりの音で、温もりのある手を発見し生存者を収容した。やはり、手を合わせて感謝された。20:00捜索終了。本艦からの捜索員の結果は死者2名、生存者1名の収容で、21:30帰艦し、以後横付けした艦からの災害補給物品陸揚の準備と陸揚げ作業に従事した。

【感じたこと】

 我々が若い時代は、制服での上陸であり、『税金泥棒』と言われ、ひどい時は石を投げつけられた事もあった。だが、こうして災害派遣等で、使命を自覚し、無我夢中で恐怖心と背中合わせで任務を遂行する事により、その後入港した際に我々に対する感謝の気持ちに触れた時「自衛官で良かった」と実感できた。この感覚を肌で知ることにより『献身的愛国心が芽生えるのでは?』また、『自衛官のプライド (プロ魂) も育つのでは?』と考える。

 この経験から、23年、災害派遣も含めて、港町神戸での色々な思い出が浮かびますが、今も悲しみを忘れられない方々が沢山おられる事を胸に留目置き、現役の後輩が使命を自覚して責任を遂行してくれる事を信じている。

(了)

By:永遠の防人(トワノサキモリ)