専門家投稿:海曹時代~よもやま話~

 私が3等海曹になったのは、入隊から5年後の23歳の時、2等海曹が30歳、1等海曹が37歳、海曹長が42歳、幹部予定者で士官学校入校が45歳であり、23歳から45歳まで、36年間の自衛官在職中の22年間を下士官である海曹として生活した。

 20代の3曹時は、暴れん坊で、道理が通らないことを空けて通す事が出来ず、当時の先輩方には、大変取り扱いにくい人間であったと思っている。筋が通らないこと、矛盾していることに、1から10まで反発する事が多く上級者に逆らっていた。その分、仕事面は、上級者から後ろ指さされない対応するために、知識、技量を修得するのに、一番苦労して、泣きを経験し、努力した7年間のように感じている。当時の指揮官 (艦長以上) には、まだ旧海軍経験者の方がおられ、イケイケで、筋を通して男気で生きる者には、寛大に対応してくれる所があり、仕事で牛耳って、筋さえ通せば、怖い者無しの様な雰囲気もあった。また、各階級毎に昇任試験があり、試験成績と過去の教育機関での成績及び勤務評定で昇任するので、仕事面での技量査定が問われ、仕事面での信頼が重視されていたのは、今も変わらない事項であると思うが、とにかく大らかで、人と人の信頼関係が確立されていて、反発しても、その事に対し正面から聞く耳を持って対応してくれていた。もちろん是々非々の対処であり、その場限り、後には引きずらないものであった。とにかく、3曹の7年間は、直近の上級海曹からは、逆らう異端児であり、雑用を含め仕事量を多く命じられ、負けじ魂で処理する過程で、泣きと共に知識、技量の研鑽を余儀なくされ、仕事を処理することで、上級海曹並びに士官に認めてもらえた時代と感じている。

 30代前半2曹時は、私の下が、仕事が出来て、上級者に対しても、是々非々で間に立つ海曹と認めてくれ、それに、答えるが如く、何かと部下のことで上位者に逆らう、暴れん坊であった様に思う。また、各艦の電測員長 (曹長) の中で、数多くの方が認めてくれ、うちの艦に来ないかとの誘いもあり、当時、私の1番信頼する員長の元へ転勤が叶った。そして、大先輩方の構想の下、その員長の指示で、今も現母港で継承されている、『やまびこ会』(電測員の会で現在はやまびこ OB 会もある)の発足に貢献できた。

 1曹と曹長 (37歳~45歳) は、2曹2年目で誘われて乗艦した艦の、電測員長を1曹で拝命し、護衛艦から練習艦 (海上教育を実施する艦) に艦種変更はあったが、1艦に約8年半乗艦 (同じ艦に5年が最長) し、他の者が3隻転勤する期間を1艦で過ごした。後で聞いた話しでは、艦長、船務長が転出させ無かったらしい。そのような状況のもと転出は、その艦の廃艦での転出であり、転出先も同じ隊で、隣の艦の練習艦での電測員長であり、この転勤には、司令の意図があった様に聞いた。とにかく、3艦の練習艦での電測員長をした訳であるが、この練習艦での員長は、その艦のパート長であると同時に、乗艦実習に来る学生の学生係として、船乗りとしての資質教育にも携わり、船務科員としての術科教育も担当する状態、加えて警衛海曹として、学生の艦内生活・外出等服務指導も兼務であり、忙しくも、自衛官を育てる喜びもある、とても充実した期間であった。その当時携わった学生が、現部隊の隊司令や艦長の任に就いているのを知り、評判を聞く度に、嬉しく思う。

 37歳から45歳の上級海曹での生活は、人を育てる難しさと、横の繋がりの強化な形成及び小さな神輿ではあるが、私を担いでくれる部下への気配り等ベテランとしての事項と、術科ではスペシャリストとしてのプライドを維持する学習面があり、精神的には苦しい反面、一番成長し、全国の同輩と強い繋がりが出来た時期であり、当時の上官 (主に指揮官) の信頼を得て繋がりが出来た時期とも思う。今もまだ、その当時の仲間や上官とは、ことある度に、連絡を取り合い、付き合いは昔のままである。

 こうして振り返ると、その時代、時代で、人間関係に恵まれていたと感じるし、このような性格と態度ですから、私を、敵視している者と、仲間としての強い絆を形成出来た者と、色分け出来るぐらいの人間関係があると思うが、正道と信念を持って歩んだ道に悔いは無いし、強い絆の仲間は、人生の宝物と確信している。

ーー永遠の防人(トワノサキモリ)